先日、以前からやっているある宗教の集会に参加しました。
えっ、今更宗教?と思われるかもしれませんが、
まだ、いろいろなしがらみがありまして(笑)
参加しなければならない時もあります。
まあ以前の参加頻度から見ると、
十分の一ぐらいですが、
それでも参加すると窮屈さを感じます。
お話の内容は代わり映えしないのですが、
先祖の罪の精算とか子供の教育とか、霊界の話とか
今の幸せ(私自身の)とは無縁の話です。
霊界に行ってから天国に行くために・・・
先祖の罪を精算しないといろいろな障害が・・・
世界平和のために自分を犠牲にして・・・
などなど、
数年前までは一生懸命頑張っていたのですが、
よ~く考えてみると
先祖が苦しんでいるかもしれませんが
今の私も苦しんでいたら意味がないし、
世界が平和になっても
私が平和じゃなかったら意味がないし、
天国だって
自分だけ天国に行きたい!
なんて考えている人が
天国に行けるわけがないですよね(笑)
天国に行ける人=一人でも苦しんでいる人がいたら私も苦しい
つまり、全ての人が幸せにならないと
天国って出来ないんじゃないかなと。
自分もそうだったので思いますが、
結局の所、宗教って「恐怖でつなぎ止められている」だけ?
信じないと地獄。善を行わないと地獄
献金しないと地獄。参加しないと地獄
まあ、長年信じていると
今までの苦労が無駄になってしまうのもイヤだし
そこから離れるのが怖くてできない。
恐怖信仰なんだな~と思います。
でも、そこに幸せはない。
でも、アシュタールが言うように
それが悪いわけじゃないですよね。
自由意志で、その感覚を楽しんでいるわけですから。
だから、どっちでも良いわけです。
制限された善悪の世界を楽しみたければ、
そこに残れば良いし
イヤだったら離れれば良い。
私は、もうイヤになったので
そっと離れただけです。
今風に言えば、卒業ってやつですね(笑)
昨日のアシュタールのメッセージを読んで
思っちゃいました。
アシュタールのメッセージは
ミナミのライト らいと ライフ~light, right, life~
にございます。