先日、30年来のお友達に会いました。(宗教つながり)
数年ぶりです。
彼は自分より10歳ぐらい年上で、
とても信頼できる方です。
彼はとっても懐が深い方なので、自分が宗教を卒業し
楽しく暮らしていることを話しました。
まあ、そんなこと信頼している人にしか
話しませんが、
彼は特にびっくりすることなく聞いてくれました。
何故卒業したの?
と問われて、
「幸せについて真剣に考えた結果です」と答えました。
その宗教では肉体生活の延長が
霊界での生活と教えています。
ということは、肉体を持った現在が
幸せでなければいけないはずなのですが、
幸せを感じ切れていなかったのです。
更に、その宗教では神の元での世界平和の実現
を謳っていますが、
世界を作っているのは個人です。
その個人の集合体が家庭であり、社会であり、国家と
拡がっていくのです。
つまり、個人が幸せを感じないと
家庭、社会、国家も幸せになれないのではないでしょうか?
でも、その宗教では
自己犠牲を、自己否定を
強要しています。
つまり、人間は堕落して自己中心になってしまったために
争い、不平等、戦争が起こってしまっているというのです。
だから理想の世界を作るためには、
一人一人が「他のために生きる」事をやって行かなければ
ならないという考え方です。
確かに、それはそうです。
みんなが人の為に生きたら
理想世界はできそうですよね。
でも、自分が空腹(満足していない)なのに
喜んで人に与えることが出来ます?
与えることができたとしても
やっぱり我慢になっちゃうんです。
自分の幸せは置いといて
人のために生きる・・・・
それは、こうあらねばならない
という囚われに繋がります。
人に与えなければ
人のために生きていなければ
生きている価値がない
という観念に支配されてしまうわけです
自分が我慢して、人に与えることは出来ます。
でも、自分の気持ちはどうなんでしょう?
一時的には満足するかもしれませんが、
ず~と続けていくのは難しいんです。
与えれば与えるほど
心が枯れて行ってしまうんですね。
それは、自分の中に無限の愛の泉がないと
出来ないことです。
自分がお腹がいっぱいだったら
喜んで人にあげることが出来ますよね。
でも、その無限の泉は「神様」と繋がらないと
得ることが出来ません。
我慢して、自分のいやなところばかりを見つめていると
「神様」とつながれないんです。
それは、我慢していると
感謝、喜びの感情を
感じることが出来ないから。
我慢しながら感謝はできないですよ
感謝出来ないので。
喜びを感じない。
それどころか
喜んで出来ない自分に自己嫌悪。
自分はダメな人間
自分は神様に愛される資格がない人間
というレッテルを貼ってしまうです。
そして、負のスパイラルが
自分自身を追い詰めていく。
でも、宗教をやめて幸せになる
自信も確信もない。
結局、仕方なくついて行っている状態だったわけです。
アシュタールもこんなことを言っていますね。
どうして波動を軽くしたいの??
宗教を卒業してわかること。
自分の人生は観念で出来ている。
自分の心が本当に望んでいることに
フォーカスして
行動していく。
良い悪い、善悪なんてない。
ということでした。
彼は彼なりに悩んでいたと思います。
でも、彼は今も
宗教の中での幸せを模索しています。
彼の人生は彼が決めること。
これからも交流しながら、
楽しくやっていきたいな~
と思っています。